<南風>心の彩


社会
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 令和元年10月31日、首里城が焼失した。ニュースで知った私も「大変なことになった」と思った。しかし、普段涙腺が緩い私だが涙はなかった。ましてや「琉球王国の象徴、アイデンティティーの喪失」とは感じなかった。なぜだろう。この2カ月考える時間が持てた。それは、私の成育歴に由来する「心の彩」と大いに関係しているように思う。

 私は、昭和24年石垣で生まれ、1歳で沖縄に移住した。家族や親戚はヤイマムニ(八重山島くとぅば)で話していたが、ヤイマの歴史・文化はほとんど分からない。ヤイマピトゥ(八重山の人)ではない。

 小、中、高、那覇で過ごした。「野球バカ」の愛称を頂戴し野球漬けの日々だった。「医者になれ」と言われて多少の勉強はしていたが、沖縄の歴史・文化は分からない「ウチナンチュ」だった。

 首里に琉大があった頃、昭和44年、パスポートを持って日本・東京の大学に行った。入国審査を終えると直ちに住所不定のヤマトゥンチュになった。不思議な感覚だった。

 沖縄が故郷と身近に感じたのは70年安保・沖縄問題だった。少なからず影響を受けた。一方、医師というアイデンティティーが見つからず中退。21歳だった。

 食い扶持(ぶち)稼ぎに大型路線トラックの運ちゃんをしていたある日、転機が訪れた。『心療内科』という本に出合った。これだと思い34歳の時琉大に入学、40歳で卒業した。首里城が復元された1992年には静岡で勤務していた。

 私の心の彩は、ヤイマピトゥ、ウチナンチュ、ヤマトゥンチュでもないが、再建には携わりたい。多くの血が流された琉球王国ではなく「戦いを拒み平和を望む沖縄」という「心の彩」に染まりたいからである。悲しい歴史は必ずや人々を成長させてくれるに違いない。エイと奮い立たねば。
(原信一郎、心療内科医)