<南風>道草(1)


社会
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 「生き様を書いて」と依頼されました。「風変り」な医者だからでしょうか?初回は、首里城焼失と成育歴との関係を書きました。古希を迎えた今、首里城焼失はこれまでの「生き様」を振り返る機会が与えられたと思います。少しお付き合いください。

 幼い頃から文武両道の「優等生」でした。中学時代は、父親が「子の七光り」とはしゃいでPTA会長をしたり、知名士劇に出演するほど「威光」があったようです。一方、母親の教えは、常に道徳的なものでした。

 両親や先生方から「医者になれ」と言われ、また沖縄の医療の貧困さを感じていたことが重なり、医師を目指すことに決めました。

 那覇高校入学後は吹奏楽部に入りました。「野球はやめて勉強を」と言われたからです。楽器の音が出せず悪戦苦闘していた頃、眼前では野球部がはつらつと練習していました。「野球の心」を抑えきれませんでした。その時素敵な出会いがありました。那覇中野球部の先輩故嘉数武さん(元琉球新報開発社長)、そしてもう一人知らない先輩(富田詢一琉球新報社会長)が毎日勧誘というか脅しというか入部を促しに来てくれました。

 腹をくくり両親と談判しました。「医者にはなる、野球をする、一浪すれば何とかなる」と訴えました。これが「道草」の始まりになりました。また初めての自己主張でした。

 目的の所へ行く途中で他の事に関わって時間を費やす「道草を食う」のは大変面白いものです。2年生の新チームの主将に選ばれた昭和41年、第16回新人野球秋季大会で優勝、九州大会に出場しました。一回戦で唐津商業に負けました。

 一浪して昭和44年、国費留学生として日本の東京医科歯科大学に入学しました。その後も「道草」をしました。次回に書かせていただきます。
(原信一郎、心療内科医)