<南風>「あの日」の縁ふちで


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 息子の名前の由来は、阪神・淡路大震災にある。今年1月17日で25年。あの日、息子は私のお腹の中にいた。だから息子の年齢は、そのまま阪神・淡路大震災からの年月を表す。

 当時、明石海峡大橋に近い神戸市のはずれに住んでいた。未明に突然襲った激震は、私を「フライパンの上で炒られる銀杏」のように、布団の上でもてあそんだ。しかし幸いにも、家族や友人の命、住む家、仕事を失うことはなかった。妊婦だったため、1週間後には神戸を脱出した。その時点で、私は「被災者」ではなくなった。

 お腹にいた子は、7年間の不妊の末授かった。私のような妊婦が亡くなったことを知っている。その人が私でなかった必然は、どこにもない。災いは私の傍らを、肩をかすめて通り過ぎていった。

 「遭うたもんにしかわからん」。広島の原爆を体験した人の言葉は、絶対的な力を持つ。直接の体験者とそうでない者との間には、深い断絶がある。だとしても、当事者の傍らには、それぞれの思いを抱いている人たちがいる。

 神戸の街が火に包まれたあの日、東の空を見上げながら、遠い空から車体にうっすら降り積もった灰とともに沈殿した深い悲しみ。ようやく2か月後に目にした、瓦礫と焼け野原と化した街の姿。そして、希望の願いを込めて名付けた息子の名前。

 大切な人を失った遺族の方々は、過去の「あの日」に向かう。私は決してたどり着けないその縁を、うろうろと歩き回る。そして、あの日を知らない若者は、それぞれのきっかけを通して、その後を生きてきた遺族と「今」出会う。誰もが「あの日」を忘れないために。

 震災のあった1995年は、戦後50年の年でもあった。ここにも忘れてはならない「あの日」がある。
(門野里栄子、大学非常勤講師)