<南風>良いことをしないことと、悪いことをすること


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 冬のある寒い朝、東京拘置所の独房から大きな声が響いた。「諸君、良いことをしないことと、悪いことをすることとは、どちらが悪いと思うか?」。獄内はシーンと静まり返り、何の返答もなかったそうだ。発言の主は、太平洋戦争下、軍部と対立し、治安維持法違反と不敬罪で東京拘置所に投獄されていた創価学会の初代会長牧口常三郎であった。

 良いことをしないことと、悪いことをすること、その違いは、なかなか判断することは難しい。「悪いことをすること」は、単純に悪いに決まっている。それは当然のことだ。しかし、「良いことをしないこと」はその範囲が広く、人は別の価値判断と感情を抱く。それは一種の不信感である。

 先般の沖縄県の国政選挙において、政権政党側の有力な候補者が敗れた。その前に行われた県民投票において、「基地反対」は県民の多数意見であった。ところがこの候補者は、基地建設については、慎重にその賛否について終始触れなかった。これは、県民感情を無視して「良いことをしなかった」ことになり、県民の不信感を喚起し、選挙の結果に影響することになったのではないかと思う。

 日本全体から見ると、沖縄県の占める面積はわずか0・6%なのに、在日米軍基地の70%がこの島にあるというアンフェアは誰が考えてもおかしい。沖縄の人たちは、反米思想一辺倒ではない。日米安保条約が日本や世界の安全に真に必要なら、日本全体で負担を分けあってほしいという、正直な感情なのだ。日米安保条約に基づく日米地位協定によって、原則として日本の国内法が適用されないままで、米側に裁量を委ねるのは、治外法権的でおかしく、地位協定の抜本的な見直しが必要だというのが県民の多数だと思う。

 なぜ、日本政府は沖縄に「良いことをしない」のであろうか、不信感を抱く。
(山内眞樹、公認会計士)