<南風>道草(Ⅱ)


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 1969(昭和44)年春、三つの約束をさせられ東京に向かいました。「登山はするな」「学生運動はするな」「内地女性を嫁にするな」というものでした。「分かった」とうなずいて親元を離れました。

 大学では、早速野球部に入部。野球経験者は私だけ。投手で四番でした。捕手は、鎌田實先輩。『がんばらない』の著者で諏訪中央病院の名誉院長先生です。また、日本の自然の美しさに誘われアルプスの3千メートル級の山々に登りました。こうして「登山はするな」を反故(ほご)にしてしまいました。

 70年(昭和45年)は、安保条約の延長・日米同盟の強化、ベトナム戦争の激化、そして故郷沖縄の未来をめぐって世情が騒然としていました。学生を先頭に多くの人々が「安保反対」「反政府」を訴え集会やデモを行っていました。

 戦争を知らない世代ですが、その酷(むご)さ・非人間性は教わってきました。戦後の宮森小学校米軍機墜落事故、米軍・米軍属による凶悪な事件に憤りと悲しみと無力感を感じていました。

 社会の矛盾を敏感に感じる青年期の「ウチナンチュ」として、「通り過ぎていく、シュプレヒコールの波」を看過できず、呑(の)み込まれていきました。野球も学業もおろそかにして、学生運動に身を委ねる時期がありました。「学生運動はするな」の約束も破りました。

 しかしながら、理想を掲げた運動は歪(ゆが)んだ方向に転じていきました。疑問を抱き離れました。その後も「日本は祖国?」「沖縄の今後は?」「医師は?」「人間とは何であり、どうあるべき?」と自問自答を繰り返す一方、「親不幸者」と自分を責め、こうして漆黒の暗闇に佇(たたず)み、気が抜け、我を失っていきました。

 どうすればこの暗闇から抜け出せるか?「道草を食う」ことに逃げました。トラックの運転手などをしながら命を繋(つな)いでいました。
(原信一郎、心療内科医)