<南風>道草の先


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 学歴高卒、職歴なし、資格第一種普通自動車免許で社会人になりました。

 はじめは弁当屋の運転手でしたが、物づくりをしたくて東芝の下請けの町工場で冷蔵庫の部品を作っていました。プレス機であやうく指を切断しそうになって、怖くて辞めました。

 その後は、もっぱら運転手の仕事。大型二種免許が取れたので、大手運送会社のトラック野郎になりました。12トン車に乗り、静岡から大阪、京都そして高松へと車を飛ばしていました。新米運転手は、午後3時に出社。集配された荷物を行先別に整理し、5時ごろ出社する正運転手と協力して積み込み、出発。先に正運転手が運転。副運転手は運転席後ろのベッドで仮眠。午前1時頃、「おはよう」と起こされ、運転交代。正運転手は仮眠。午前3時頃から十数か所の支店に荷物を降ろして、終点の支店に到着、「夕食」を取り就寝。帰りは、静岡方面の荷物を積んで、自分の支店で終了。現金とご遺体以外は何でも運んでいました。

 「道草」をして12年の月日が流れていました。その間に、一様ではないそれぞれ個性のある人間模様を見て、人との出会い・別れに思いをはせ、人生の意味に心を砕くことが、感動し共感できる心を育むことにつながっていったようです。

 ある日、転機が訪れました。『心療内科』という本に出合いました。日本で心療内科を創設した九州大学の池見酉次郎先生とお弟子さん達が書いた新書です。そこには、「人間を忘れない医療、医師と患者の人間関係を重んずる医療」の大切さが記されていました。 「これだ!」と感激しました。勉強しなおして昭和58(1983)年3月琉大に合格。発表の1週間前に娘が生まれました。嫁は、「内地の女性」です。これで三つの約束すべてを破りましたが、道草の先には再び医学の道が開いていました。
(原信一郎、心療内科医)