<南風>幻の甲子園


社会
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 春の選抜高校野球大会が、新型コロナウイルス感染拡大の影響を受け中止することになった。残念だが、あらためて健康で平和な世の中であることが野球を含め各種スポーツや文化活動などの礎になっていることを実感することになった。

 時はさかのぼり、昭和16(1941)年の夏、戦局悪化を受けて第27回夏の全国高校野球大会が中止になった。当時の代表校選出は、1次予選として各県大会、さらに2次予選に九州大会を行い決定していた。沖縄県代表校は九州の強豪校に力負けすることが度々あった頃であるが、この年は例年とはちがっていた。代表校は県立二中(現那覇高校)だった。県予選では他校を圧倒し、決勝は9対1で沖縄水産を下して優勝した。次なる2次予選の南九州大会の会場は、関係者の念願がかない地元の奥武山野球場の予定であった。

 監督は、のちに「沖縄野球の父」と呼ばれた国場幸輝氏だった。同氏は「一球入魂」という言葉で有名な早稲田大学総監督の飛田穂洲(とびたずいしゅう)氏と親交を重ね、技術や戦術、練習法を学び地元開催を見据え選手たちを鍛え上げた。投手の仲村渠栄儀氏はハワイ移民から帰国した経験豊富な速球派タイプであった。投攻守三拍子揃った同校は甲子園初出場を目指し並々ならぬ決意をもって準備をしていたのだ。ところが大会まで、あと1週間という直前に「中止令」が発表された。もし、実施していれば初出場は戦前の県立二中だった可能性も否定できない幻の大会となった。

 当時の選手たちの記録がある。「我々は茫然とした。張り切った弦が切れたような気持ちを抱きしめながら、信じようとしても信じられぬ この事実の前に、もがきながら、夢とも現実とも判らぬ気持ちで、暫(しば)し一点を凝視(みつめ)て居た。我々の練習苦行は何の為であったか…」。平和な日々に感謝したい。
(外間一先、県立博物館・美術館主任学芸員)