<南風>説明ではなく


社会
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 ひとを説得するには、事実に基づいて筋道を立て、理路整然と伝えることが最適だとされる。しかし思考の回路を開くのは、それだけではない。ひとの心を動かし、考えようとさせるのは、むしろ説明しきれない何かであったりする。

 平和学習にたずさわる中で、そのことに気づいた人がいる。自分はまるで演出家のように、戦跡をたどりながら修学旅行生をガイドしていた。ある時、途中から沖縄戦体験者のおばあさんに話をしてもらった。ざわついていた生徒たちが、方言混じりのおばあさんの話に聞き入り、涙を流す子さえいた。「民泊」で生徒たちは軍服姿の故人の写真を見たり、仏壇のある部屋で寝たりする。整ったプログラムより、ありのままの風景から考えることが平和学習になると思った。

 私自身が平和ガイドの方の話を聞く時、関心が向くのは、過去にあったことの説明ではない部分である。その1人は、6歳の時に家族や親族とともに「集団自決(強制集団死)」の場にいた。手りゅう弾の不発という幸運と、母親が発した「生きられる間は生きるべきだ、皆立てー」という言葉によって、生き残ることができた。続く彼の話は、母親がなぜそのような行動をとることができたのかを問い続けることが、自分の課題だということだった。

 村長や家長である父親たちにはできず、無学でやさしい母親ができたという事実は、教育とは何なのかを考えさせられる。事実の検証だけでは、また同じようなことが起こるだろう。後世の人たちが幸せに生きるためには、行動の背景にあるものをいろんな視点から問わなければならない、と彼は言う。

 平和ガイドとは、文字通り「平和への道案内人」である。彼らが見つめるのは未来であり、そこに平和を築くために、過去と向き合い、現在行動している。
(門野里栄子、大学非常勤講師)