<南風>あったかもしれない自分


社会
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 自己決定は言うまでもなく重要である。しかしながら人は、生まれてくる人種、性別、外見などを自分の意思によって選択することはできない。親を選べないどころか、生まれてくるかこないかさえも選べない。私たちは突然、何の意思決定もなしに、ポーンとこの世に送り込まれる。

 だから私は男だったかもしれないし、他の皮膚の色だったかもしれないし、天山山脈のどこかの村に生まれていたかもしれない。「あったかもしれない自分」を差別したり蔑(さげす)んだりすることは、なんて愚かで悲しいことだろう。

 「生まれてこなければよかった」と思っても生まれてきてしまう。そこには生まれてくる必然があるはずだし、だから生きる権利を要求してよいはずだ。本人の意思にお構いなく、自分の勝手な決定を他者に強いるのは、まったくもってお門違いである。

 日本は琉球に対して、そうした強制的な決定を行った歴史がある。島津の侵攻によって「日清両属」を強い、「琉球処分」によって明治国家へと組み込んだ。沖縄戦では「捨て石作戦」によって戦場とし、戦後はサンフランシスコ講和条約によって沖縄を日本から切り離した。と同時に米軍基地を押し付けた。今でも、県民の声を無視して辺野古新基地建設を強いている。

 政治だけではない。風土に合った表現のための言葉、風土に根差した装いや風習。独自の文化も、日本に同化させた歴史がある。日本に限らず「近代国家」は、他者への暴力性をはらんでいる。

 「共生」を理想とし、その実現を目指すのであれば、あったかもしれない幾つもの「もうひとりの自分」を受け入れなければならない。それらは自分の分身であり、違いはあっても優劣はない。多種多様性は、外にあるのではなく、自己の内にある。
(門野里栄子、大学非常勤講師)