<南風>私、質問に凍りつく


社会
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 顔には出さなかったが、私の心は一気に凍りついた。視覚障害が判明した3年目のこの頃、私はいかに顕微鏡から離れ、研究を続けるかを思案していた。そんなときに、ふいに飛んできた一言だった。

 テーブルの向かいに座るSさんは朗らかな笑顔を浮かべている。「顕微鏡をやめる」なんて、口が裂けても言えるはずがない。

 「そうですね。何か新しいことができたらいいですね」。あいまいで何も答えてないに等しい返しだったが、これが私の精いっぱいだった。会話はまた、たわいのないことに戻った。

 レストランからの帰り道、私は心の中でうめいていた。「Sさん、私のこと買いかぶりすぎです。私にはそんな才能あるどころか、目のハンディがありますから」。でも思えば、Sさんは予言者だったのですね。私、その時よりも、今の方がどっぷりと顕微鏡にのめり込んでいますからね。

 大学院の最終学年を迎える頃、研究にもめどがつき、次の職のことを考えていた。私はかねてから海外に出ると公言していた。しかし同時に、障害者枠での就職もありだと思っていた。規模の大きい企業は障害者を一定数雇う義務がある。どこの企業も戦力になる障害者を求めており、そのための人材紹介会社もあった。今後の長い人生を考えれば、視覚障害者の私が海外に出るのは無謀とも思える。まだ、ある程度見えている今のうちに安定した企業に就職すべきでは?と、思いは揺れていた。

 ただ残念なことに、私は戦略的に生きることができない。長年、思い描いていた目標だし、それにたった一度の人生で後悔したくない、それだけの理由で、私はアメリカで任期付き研究員になることを選んだ。よりによって、視覚障害者が車社会のアメリカに飛び込むという無茶な決断をしてしまったわけだ。
(島袋勝弥、宇部工業高等専門学校准教授)