<南風>「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー」


社会
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 あなたもわたしも艦砲射撃の喰い残し。沖縄戦を生き延びたうちなーんちゅの戦争を恨み平和を願う心情を綴(つづ)る沖縄民謡の名曲「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー」。歌碑が岬に立つ読谷村楚辺で今年3月上映会を開いた。

 1945年4月1日、米軍上陸地となった読谷。記録映像には保護された住民の姿が多く残されている。スクリーンを指さして声を上げたのは楚辺で生まれ育った松田和雄さん(76)。そこに映る赤ん坊が自分だと気付いたのは、おんぶしている少年が従兄(いとこ)のシゲオ兄さんと分かったからだ。

 後日85歳になる池原繁雄さんにお会いできた。無邪気な笑顔をカメラに向けた少年の面影があった。繁雄さんたちが息をひそめる壕に米軍が迫ったのは上陸の翌日。「デテコイ」という呼びかけをみな怖がり黙っていると手りゅう弾が投げ込まれた。

 別の家族4人は全員即死。和雄さんの母親や叔母らも手足を負傷し、米軍が手当てのため運んで行ったという。繁雄さんが幼い和雄をおんぶしていた映像の背景には二つの家族を襲った壮絶な体験があった。また2人の側には和雄さんの兄と姉が映っていたことも新たにわかった。

 一人一人の顔や名前が鮮明になりその体験が垣間見えたときパッと視界が開けた。それまでは映画のような、遠い場所の出来事のような感覚をまだどこかで抱いていたようだ。記録映像は住民を巻き込む苛烈な地上戦へと移っていく。これは紛れもなく今と地続きの沖縄で起きたことなのだ。

 誰かが始めたあの戦争を恨み、悔やんでも飽き足らない。子孫末代まで語り継がねばと締め括(くく)る「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー」。戦後75年、喰ぇぬくさーの人々から直接その思いを伺える機会は確実に少なくなっている。だが私たちに出来ることがまだ残されているのも確かだ。
(佐久本浩志、OTVアナウンサー)