<南風>ミント味のガムと街の記憶


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 「ガム先生」という響きにはっとした。目が留まったのは沖映通りの小児科医院が閉院したという記事。「診察後にいつもガムがもらえた先生だ!」。40歳近くなり、今まで思い出すことはなかったが記憶が鮮明によみがえった。

 隣のパチンコ店で大当たりし、全部ガムに交換して子どもたちにあげたことがガム先生と呼ばれるきっかけだという。「パチンコ店もあったな。建物の色やデザインも覚えている」。波紋が広がるように物心ついた頃に見た周辺の景色が次々と頭の中に浮かぶ。

 前島の自宅から桜坂の祖父の家まで沖映通りから国際通りを通って行き来していた。あいさつするとタンナファクルーを1袋ただでくれた直売所のおばあちゃん。薬局だったか、ウーパールーパーを飼っていた店。屈伸運動するピエロの人形もいて夢に出るほど怖かったがとても懐かしい。

 国際通りは金物店など日用品を扱う店も多く、ジーファーを刺した女性たちともすれ違った。ポスターではなく職人が手がけた映画の看板も迫力満点だった。観光客もすでに多かったのだろうが、確かに県民の暮らしの側にある時代だった。

 平和通り入り口の螺旋(らせん)階段が特徴的な建物。6年前、沖縄三越の灯が消える瞬間を長年上の階に暮らす家族と共に窓から見つめた。那覇タワーはまだ立っていたが国映館や山形屋も消えていった。「こんな時代がくるなんて」と涙を浮かべる母親の姿が印象に残る。

 新型コロナウイルスの影響で軒並みシャッターは閉まり、行き交う観光客もほとんどいなくなった国際通り。まさに時代を映す鏡なのだと感慨にふける。診察後に楽しみにしていたミント味のガムがそうだったように、30年後か40年後「あんな頃もあったな」と思いを巡らすきっかけがやってくるのだろう。
(佐久本浩志、OTVアナウンサー)