<南風>まいふなー


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 「首里城焼失」を「大変なことになった」とは思ったが、「喪失感」はなかったのはなぜ? 成育歴から考える機会を与えられた。

 父方の祖父は、羽地の人で明治の末頃石垣に移住した鍛冶職人。2人の男子を授かった。次男が父親。彼は、10代半ば、石垣島から東京浅草の紳士服店に弟子入りしていたが、日中戦争で招集され戦地に送られた。銃弾を受け本国送還。太平洋戦争では招集を免れた。明るくにぎやかなことが好きな父には、落語・漫才・手品などが楽しめる浅草は天国のような場所だった。仕事は丁寧、趣味は多彩、子煩悩、人を喜ばせ自分も楽しむことに長けていた。

 母は、琉球王府、地方府の役人で八重山の大浜間切頭職にあった石垣家(マージンヤ・真仁屋)の次女。石垣家には、1800年頃に琉球石灰石で築かれた枯山水の庭園がある。当時の上級階級の屋敷と庭園を知るうえで貴重な遺構といわれ、国指定の名勝である。

 ところで、上級階級とは八重山の最高の役職のことである。民・百姓から琉球王府だけでなく薩摩の人頭税制による貢租を徴収する任務に就いていた。上級階級にあった石垣家だが、母は、その家風は「慈愛の心」であったことを諭してくれていた。父親の底抜けの明るさと芸達者ぶりはさほど受け継いでない。母方の道徳的な教えが色濃く刷り込まれている。幼い頃から「まいふなーになりよ(利口になれ、いい子になれ)」と、母や叔母たちから言われて育った。

 「まいふなー」とは、勉学に励み、親の期待に応えて、親孝行すること。何の疑問も持たず受け入れていた。そして、親の期待は「医者になれ」に膨らんだ。こうして、試験には出ない琉球の歴史と文化を学ぶ必要はなく私から削除されていった。首里城は、観光名所の一つに過ぎなくなった。

(原信一郎、心療内科医)