<南風>祖父の100日


社会
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 連絡任務の最中、陸軍病院壕で看護に従事するひめゆり学徒の姉と束の間の再会を果たした。「元気でいなさい。私も頑張るから」これが最後の別れになるとは思いもしなかった。10年前、祖父と2人で沖縄戦当時の足取りをたどった。

 県立工業学校の3年に上がった祖父は、津嘉山の司令部壕構築に駆り出される。慣れない測量で、掘り進んだ壕が一向に繋(つな)がらず肝を冷やしたという。米軍上陸後、中城城跡の戦闘で増大する死傷者に「これが戦争か」と思い知らされ、一旦は後方部隊にいたが米軍の迫る首里戦線へと投入されていく。

 監視任務に就いた場所は現在の首里坂下にあるホテル裏手にあった。凄(すさ)まじい弾雨で常に緊張を強いられ、ずぶぬれの寒さも忘れたという。摩文仁へ退く第32軍の殿(しんがり)を務め国場橋を破壊。その後部隊は与座岳を経て玻名城で壊滅した。祖父は逃げ場を失い立ち往生する住民の1人となった。

 ガマで居合わせた軍高官らに道案内を命じられ国頭突破を図るも失敗し、独り真壁の暗渠(あんきょ)に身を潜め米軍に捕まったのは6月26日だった。車では2日間の行程にすぎないが祖父の決死の100日を追えたのは貴重な体験だった。想像絶する地上戦を生き延びてくれたおかげで今の家族や私が存在するのだ。

 戦後は家族を食べさせるため死に物狂いで働いた。姉の最後を知る元ひめゆり学徒らの案内で、亡くなったであろう場所で手を合わせることが出来たのは戦後50年以上がたってから。

 食べる物に困らず世界旅行にも行ける。平和はありがたいんだよと事あるごとに語ってきた祖父も今年で92歳。戦争体験をいつまで聞くことができるだろうか。だが祖父の100日間を私が語っていくことはできる。戦後75年の節目に受け継いだものの重みをかみしめる。
(佐久本浩志、OTVアナウンサー)