<南風>親子をつなぐもの


社会
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 いつの頃からだろう、私と父との間には距離が出来ていた。父の車に乗る時は決まってタクシーのように後部座席に座り、会話もなくなっていた。

 思い返せば、物心ついた頃から父とは顔を合わせる機会が少なく、平日は起床時と就寝時くらいで、週末も仕事や付き合いで不在が多かった。母ときょうだいで食事をすることが日常であり、全員がそろう日曜の夜はちょっとしたお祝いということで、よく外食をした。小学校高学年になる頃には、勉強以外の話題が見つからず、父の帰宅時に足音が聞こえると一目散に部屋へ駆け込み、次第に避けるようになっていった。

 一方、私の中学・高校の進学と同時期に父のビジネスも拡大していった。23年前、新規事業として東進衛星予備校を県内で初めて開業した頃、私は球陽高校へ進学と同時に、塾は東進に通うことになった。高校には父の仕事柄、知人の教員も多く、高校でも塾でも父とのつながりがあることで、次第に息苦しさを覚えていった。卒業後の進路を決める際、とにかく自由になりたい思いが先に立ち、県外への進学を希望した。その頃、父の会社の業績が芳しくないことは、両親の会話で察していて、私立大学への進学や浪人もできないことは理解していたが、それでも県外に出る選択は譲れなかった。

 県外公立大学への入学と同時にアルバイトを始め、卒業まで4年間続けた。私にとっては、学業やサークル活動よりも働く経験が自己肯定感や自信につながっていった。自分らしさを認められるようになったことで、父への感謝の気持ちからいつかは父の会社を手伝いたいと思うようになった。卒業後は県外企業で働き、経験や実力をつけて沖縄に戻ろうと決意していたが、卒業間近の2月、父の突然の願いに私は戻らなければならなくなった。
(島袋菜々子、日経教育グループHRD labo OKINAWA取締役)