<南風>人生の転機


社会
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 将来の夢は中学、高校と活動をしてきたソフトテニスの指導者になることであった。母子家庭で育ち農家だったので、大学へ進学するために、1年間は入学金と学費を稼ぐために那覇でアルバイトをした。朝4時に起きて、農連市場で食材を仕入れて学校等の給食室へ配送業務、午後からはバイクで本土新聞(当時復帰前は輸入新聞と呼称)の配達。夕方からは予備校で受験勉強、睡眠は4時間くらい。その習慣があって今も4時起床が多い。二つのアルバイトでためたお金で、入学金と1年分の学費があった。無事沖大の夜間に入学したが、3年時に地元の国頭郵便局で郵便外務の採用試験を受け採用された。

 その時は私にとって大きな決断だった。大学を続けるべきか、辞めて地元で就職するのか、かなりの迷いがあったが、自然が大好きで将来は地元に生活の拠点を築きたいとの強い思いがあったので決断した。1回目の人生の転機であった。

 郵便配達の仕事はとても楽しかった。田舎では「お茶は1杯ではなく必ず2杯は飲みなさい。それが厄払いになる」と言われ、配達先でよくお年寄りからお茶を勧められた。また、配達の帰りには季節物の野菜を多くもらい職員で分け合ったものだった。

 20年配達を続けて、40歳を過ぎて人生の2回目の転機が訪れた。会社の人事担当から「東京の郵政大学の高等部一科を受験してみてはどうか」と言われた。全国から40人3カ月のコースである。その時は2人の子供がいて、随分悩んだ。運よく合格して全国の仲間と寝食を共に、3カ月間厳しい研修で朝から晩まで猛勉強をした。今もその時の研修の経験が私の人生の中で生かされている。

 人は長い人生の中で必ず節目があり、決断しなければならないことが何度か訪れる。それを生かすも殺すも自分次第である。
(比嘉明男、県パークゴルフ協会連合会長 日本郵便沖縄支社長)