<南風>さまよう日常生活


社会
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 「日常生活」という言葉を、これほど考えた一年があっただろうか。

 日常生活は、一定のリズムがあって反復的であり、基本的に単調なものだ。退屈なものこそが日常生活だと言ってもいい。

 「変化」は、それが良いものであっても悪いものであっても、精神と肉体にストレスを与える。ある程度のストレスは適度な刺激となり体と心を活発にする。でも残念ながら、人間は(たぶんどの生き物も)、絶え間ないストレスに耐えられるようにはできていない。だからこそ、僕らには単調で退屈な生活が必要なのだろう。

 今年はその日常生活が試される年だった(まだそれは終わってないが)。

 ロックダウンに続く移動の制限、あれをしろ、これはするな、今はこの時期だ、いやもうそれはいけない…。新しい基準と制限に沿うように日常生活の軌道を修正すると、またも変更を迫られる。「生活」はそれを生きるものの特権だったのに外からの圧力で常に変更を迫られている。

 この一年が何だったのかがあまり思い出せない。「何をしたのか」というよりも、記憶の中には「何をしなかったのか」と「何ができなかったのか」が溢(あふ)れていて、いつの間にか一年がどこかへ去っていたかのよう。

 僕の住む西オーストラリア州は新型コロナウイルス感染症対策が比較的うまくいっている。そこに住んでいてもそう思うのだから、いまだ活発な状況にある沖縄や日本や海外の人たちは、なおさらそう感じているだろう。

 安全で安心できる環境が戻り、心の底からため息の付ける単調で退屈な日常生活がすべての人に戻ることを祈らずにいられない。

 その時は必ず来る。それまで一人一人がお互いを気遣い、思いやりながら生きていきましょう。
(山内肇、オーストラリア在住家庭医)