<南風>豚の尻尾は絶品だった


社会
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 私は旧東風平村で生を受け、3カ月後には神奈川に移り住み、物心ついた頃は川崎市内に沖縄出身者だけ13世帯のアパート(社宅)で私の家族は暮らしました。

 アパートの中はリトル沖縄そのもので、皆、肌の色が黒く、強烈な方言が飛び交い、暮らしは裕福ではありませんでした。でも、皆、仲良く家族同然で、どの家庭にも自由に出入りし、おなかがすいたらどこかでサーターアンダーギーをもらい空腹を満たしました。

 私の父親は、アパートの前にあった公園の金網にゴーヤーを這(は)わせ、隅のほうではさまざまな作物の畑を作りました。もちろん役所の許可なしに、テーゲー精神が成した業だったのでしょう。父親が作る豚足やゴーヤーが入ったしょうゆベースのかつおだしの鍋料理は絶品で、特に、豚の尻尾は私の大好物でした。その公園では、毎日、肌の色が白い地元の人の言葉は標準語で、アパートに戻れば方言が飛び交う(子供には強烈な方言は全くチンプンカンプンでした)、まるで別世界で不思議でした。

 その頃多くの沖縄出身者が、東京の羽田空港から本土の土を踏み、多摩川を渡り、すぐ近くの川崎や鶴見に移り住みました。その時期に沖縄出身者たちが鉄鋼業で成功し、沖縄パワーがあふれるほどに変化したのを目の当たりにしました。

 もう一つ、貧乏だった沖縄出身者を勇気づけたのが、川崎の産業文化会館で催された琉球舞踊会で、いつも満席で、当時子供だった私も、華やかな琉球の赤・黄色・ピンクの衣装とタカラジェンヌにも劣らぬ沖縄美人の舞に心奪われ、その高揚感は今でも鮮明に覚えています。

 最近、もし両親が上京せず、沖縄に住み続けたのなら、自分の人生はどうだったろう?と思う。間違いなく、大好きな沖縄から離れることはなかったでしょう。沖縄万歳!
(新垣進、関東沖縄経営者協会会長)