<南風>嫌気差した中学時代


社会
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 小学校の頃は、週に1、2回の体育館での練習が楽しく、ハンドボールがもっとやりたいと思っていたが、中学校は毎日外で練習、土日も休みなし、27年前なので練習中の水分補給はできない。コートで擦り傷を作っても練習から抜けられない。そもそも1年はほとんど見ているだけ。顧問の先生は厳しく毎日何人も厳しく指導されていた。

 小学校の時に優しかった先輩方は厳しく、頻繁に部室で説教された。その雰囲気が嫌で僕は練習に行かない日が増えた。先輩たちも毎日あれだけ練習しても県大会ではギリギリ優勝。関東大会ではもちろん全く相手にならず引退した。

 中学校のハンドは今までとは全然違う。僕にはできない、もうハンドは辞めようと強く思った。それでも練習を休んだ日は仲間が帰りに家に来てくれて明日は来いよ、来週は来いとずっと誘ってくれていた。これは2年になっても変わらず、仲間に比べて半分も練習には行かなくなっていた。しかし厳しい練習を毎日している仲間よりも適度に練習をしてきた僕は1年半で20センチほど身長が伸びて173センチメートル、チームで1番大きくなっていた。

 一つ上の先輩たちも夏の大会でやっと県大会を勝ち抜いたが、同じように関東大会ではボロ負けだった。その先輩も引退し、僕らの代になった時に先生に呼び出された。「お前を待つのはもう疲れた。仲間がずっとお前に期待して待っている。俺も期待して他のメンバーを落としてベンチに入れた。それに応えられないのであればハンドをやめろ」と告げられたのだ。

 その時に、ずっとやめたくてもなぜか離れられなかったハンドができなくなる。そんなのは嫌だと思い、先生にも仲間にも明日から毎日練習に来ると約束した。そこからの成長は自分が思っている以上のものだった。
(水野裕矢、琉球コラソン代表取締役CEO)