<南風>1本のクレヨン


社会
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 皆、誰でも親はいる。両親がいなければ自分の存在はない。

 父の家族は戦前、宮古島から満州開拓団として中国に渡った。そこで弟や双子の妹も生まれ一家8人で平穏な暮らしをしていたが3年後、終戦の引き揚げで生き残って日本に帰って来れたのは、当時11歳の父だけだった。たった1人で帰って来た少年の、帰国までの壮絶な状況を自分は想像できない。故郷に帰ってきた孤児を温かく迎える場所は、戦で疲弊した沖縄には全くなく、成人するまでの過酷な経験を語る父の言葉は少ない。

 郷里で出会った母と結ばれたのは24歳だった。資産もなく、親兄弟もいない父と結婚した母親は偉いと思う。「愛の力は何事も凌駕(りょうが)する力があるんだね」と母に言いたい。

 父は働いていた貝ボタン工場を辞め、社宅から木造の借家に引っ越した。トタン屋根の古いわが家は、雨漏りが常であった。家の半分は父の貴金属加工場で、朝から晩まで槌(つち)音が聞こえた。やがて自分の店舗を那覇の国際通りに構え、母が店頭に立ち商売を拡大させ念願の自宅を建てたのは38歳。夫婦二人三脚で1男3女、4人の子供を育て上げた。家族を守るために懸命に生き抜いた若い父や母の姿は、子供の目にもたくましく、まぶしく見えた。

 その父も87歳になり、ひ孫の顔を見ることができた。父が生き抜いてつながった生命を考えた時、父の亡き両親のことを思う。子供を独りぼっちにさせてしまった無念を。

 父の両親は、父が故郷に1人帰り、そこで出会った母や多くの友人たち、子供や孫、ひ孫、全ての人に感謝しているであろう。1本の黒いクレヨンだけで描かれたような、戦後直後の孤独な父の人生の絵が、出会った人々に次第に彩られ、暖かく鮮やかな色で描かれるまでになったのだから。

(根間辰哉、空想「標本箱」作家)