<南風>高校生活


社会
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 高校に進学し、1年生から試合に使ってもらったが、体の成長や、思春期の影響で、うまく自分をコントロールができず、ハンドボールに集中しているとは言いにくい状況だった。仲間の中にはタバコや酒を始める人間がいて、時代だったのか、何かあればすぐに連帯責任と言われるのが本当に嫌だった。

 2年生になるとチームのエースに抜てきされた。3年生を差し置いてなので、先輩たちの思いも感じながらコートには立っていた。結果は全国選抜ベスト8、インターハイはベスト16で那覇西に敗れた。その時も沖縄の印象はとにかく「ヤバい!」。なんでこんなことができるのか、と感じているうちに試合が支配され大会が終わった。

 僕らはこの代から7人中5人は同級生で戦っていたので、自分たちの代になって、絶対に同級生には負けないという自信ができた。目標も決まった。駿台初のベスト4。これを掲げ、戦っていくことになった。新チームでの遠征や練習試合はほとんど負けることがなく、全国選抜前のマスコミ展望にも4強の一角とまで書いてもらったが、その予選から歯車が狂い始めた。

 同級生は11人いたが途中で2人がやめ9人となっていたのと、1つ下の学年が2人しかおらず、普段の練習でゲーム形式ができなくなった。それに拍車をかけ、主力メンバー2人が前十字靭帯(じんたい)損傷の大けがをしてしまった、僕も関東大会前日に足首の靭帯断裂をしてしまってベスト4どころか、全国選抜出場自体危ぶまれてしまったのだ。

 関東大会の結果は散々で、なんとか最終戦で全国の切符を手に入れたのだが、メンバーは夏になってもそろわず、全国選抜、インターハイ共に1回戦負け。ベスト4どころか近年で最低の成績で夏が終わった。しかしここから国体に巻き返しが待っていた。
(水野裕矢、琉球コラソン代表取締役CEO)