<南風>国体での戦い


社会
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 インターハイが終わり、国体の関東予選。1998年は神奈川国体だったので、関東の8都県から6枠が本戦に出場できた。それでも、夏も全くいいところがなく敗戦した僕らに期待はない。ただこの大会、中学の時にゾーンに入った状態が高校生活初めて降りてきた。チームも本来の試合をすることができ、10年ぶりの国体出場を決めた。

 迎えた本番。春、夏の悔しさを晴らすのはこの大会。大けがをしていた2人も復帰し万全の状態で迎えた。順当に勝ち上がり、3回戦は地元神奈川と並ぶ優勝候補の大阪。アンダー日本代表が並ぶチームに、対策したディフェンスがはまり、死闘の末に大阪を僅差で退け準決勝に進んだ。

 神奈川は中学の時、関東決勝、全国決勝でも唯一勝てなかったメンバーらが中心だ。彼らは春、夏と連覇し、この大会で3冠を達成しようとしていた。やっと彼らと戦える。全中の後、高校でも日本一をかけてやろうと約束した場所まで来ることができた。しかし、序盤こそ一進一退だったが、流れは一気に神奈川へ。結果は惨敗だった。悔しかったが約束の場所まで来ることができ、うれしかった。

 そして最終日。実は僕らは春も夏も香川中央高校に1回戦で負けていたが、今回は別パート。強豪を倒さないと当たらないため、国体では試合することはないなと思っていた。しかし何のいたずらか、3位決定戦は高校最後の日に因縁の相手と当たることになった。

 試合は1点差で進行。前半途中その時、またゾーンに入った。しかも今までで一番ハイな状態だ。もう何をしても点が入るイメージしかない。司令塔にはボールを集めてくれ、GKには俺が決めるから1本止めてくれと声をかけた。結果1点差勝ちで、僕は両チーム最多11得点。山梨初の3位入賞となった。高校最後の大会で有終の美を飾った。
(水野裕矢、琉球コラソン代表取締役CEO)