<南風>軍歌とラジオ体操

 市町村史編集業務の現場にいたころ、私は主にフィリピン、旧南洋群島の移民体験者からの聞き取りに当たった。

 ある時、ダバオ帰りの古老の話に「土人」だの「蛮人」という言葉が何度も出てくるので「私の母もフィリピン人ですが…」と途中で口をはさんだ。すると彼は「でもあんたのお母さんはクリスチャンフィリピーナだろう? わしが話すのは向こうの原住民のことで、そりゃ中にはいい土人もいる」と慌てて言い直すのだった。

 単身移民の彼は軍に徴用され、米軍上陸後はダバオの山の中を逃げ回っていたが、無事に引き揚げてきたという。私も聞かれるままにパナイ島の在留邦人の戦争を語った。パナイ島では逃避行中に、邦人の「集団自決事件」があったにもかかわらず、わが家は全員無事に引き揚げた。フィリピン人の母も一緒だと話すと、彼はしばし沈黙し、ダバオには夫や父と離散した家族がたくさんいると言った。いわゆる「フィリピン残留孤児」である。

 パナイ島のお年寄りや子ども、女性は1945年3月18日夜、守備軍について行くことになり、市内を脱出した。ゲリラの襲撃と米軍の機銃におびえながら、やっとたどり着いた山中での暮らしが半年間続いた。食糧がなく栄養失調でたくさんの子どもが命を失った。私の家族は、母の長女姉方のいとこが一緒に山に入ったおかげで助かった、と母は話していた。

 このいとこは戦争中、日本軍協力者として軍政監部に勤めていた。戦後はダバオに移住したと聞き、私はそのいとこに会いに行った。「なぜダバオに?」。私の問いには何も答えず彼女はいきなり「見よ東海の…」と軍歌を歌い出しラジオ体操も覚えていると言った。3年半の日本時代に覚えた歌が軍歌だったとは、何と悲しい話だろう。

(新垣安子、音楽鑑賞団体カノン友の会主宰)



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