<南風>空手の実践から考える


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 筆者は「40(代)の手習い」で沖縄空手(小林流)の道場に通っている。週に2、3回、1時間半、空手と古武術(棒・サイ)の型をひたすら繰り返す。真夏も冬の寒い時期も頭から足先まで汗をびっしょりかく。上級者をまねて動きを修正するが、自分の体の各部をイメージ通りに動かすのは予想外に難しい。

 沖縄空手には諸流派あるが、琉球王国の士族が教養として修めた護身術がそのルーツとされる。本土にも「文武両道」という言葉があるが、江戸時代の士族は漢学など座学と同時に、剣術など武道を修めることをたしなみとした。つまり昔から人々は、頭(理屈)だけでなく、体を動かすこと(実践)が心身修養に不可欠と考えていたのだろう。

 振り返ると現代生活は頭脳や視覚だけの活動に偏っている気がする。コロナの影響もあり、テレワーク、Web会議、リモート○○という言葉が流行する。頭脳とIT技術を駆使すれば娯楽であれ仕事であれ物事全て解決できるような錯覚を覚える。裁判所ですら期日をWeb会議で運用するのが常識となりつつある。

 そんな中、空手の稽古は「身体性」という人間本来の性質を思い出させてくれる。スマホの画像で上級者の動きを見ても、実際に自分の体を動かさなければ、空手は習得できない。個人には筋肉量、骨格の大小、外表皮の厚さなどおのずから制約があるため、理屈が分かっても皆が同じ動きをできるとは限らない。

 武道以外も、舞踊や音楽、華道・茶道の芸事を修めるには身体的な稽古(鍛錬)が欠かせない。日常生活が頭(理屈)に偏り過ぎる現代だからこそ、武道や芸事など身体鍛錬(実践)をする機会を意図的に増やす必要がある。今年は8月に沖縄空手世界大会が予定されている。身体の鍛錬を極めた達人の動きを間近で見られるいい機会である。
(絹川恭久、弁護士・香港ソリシター)