<南風>論破


社会
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白木 敦士(琉球大大学院准教授)

 「論破」という言葉が、子どもの間ではやっているという。相手と意見が異なる場合に、相手が反論できない状況に至れば、「論破した」ことになるらしい。「勝った、負けた」が分かりやすく、ゲーム感覚で楽しんでいるという。

 こんな寓話(ぐうわ)がある。姉と妹が、畑に実ったオレンジの帰属を巡り争いになった。二人ともオレンジが必要であると譲らない。口が達者な姉にとって、口下手な妹を「論破」することは容易であった。姉は、オレンジを得たが、その代償として姉妹の関係は悪化し、妹からの信頼を失った。しかし、この話には続きがある。実は、姉はオレンジの皮を用いて菓子を作りたいと考えており、他方妹は、その果実そのものを欲していた。もしも姉が妹の話に耳を傾けていれば、オレンジの皮は姉へ、その果実は妹へと、互いに納得できる解決策へ到達し得た。

 私の知る優秀な弁護士は相手の話をよく聞く。決して相手を追い詰め過ぎず、時に相手方に恥をかかせないよう腐心する。アメリカの交渉学は、相手を言い負かす手法を教える訳ではなく、むしろ悪手と位置付ける。優れた交渉者は相手がまとった心のよろいを脱がせ、怒りや悲しみを受け止め、その上で双方にとって幸福が増える選択肢を見つけるのだ。容易なことではないが、この困難に臨む覚悟こそが、法律専門職の倫理に他ならない、と私は思う。

 「論破」の弊害は民主主義の過程において、より増幅される。ある意見への賛同者が多い時、反対の声はかき消され、大きい声が「勝った」かのように映る。小さな声に耳を傾け、それだけでなく、その声を背負い、困難な利益調整に挑んでいく役割は、声が大きい者のみが担うことができる。

 「論破」を好む子どもたちよりも、「聞く力」を自称する某国の総理大臣に届いてほしい話である。

(白木敦士、琉球大大学院准教授)