<南風>言葉と想像力


社会
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白木 敦士(琉球大大学院准教授)

 母一人・子一人の母子世帯で育った。子ども時代、そのこと自体を「つらい」とか「恥ずかしい」と感じたことはない。しかし「片親」という言葉で、私の家族を表現されたとき、子どもながら、いや、このコラムを執筆している今も、胸をえぐられるような苦しさを感じる。言葉自体は差別的な表現ではないが、なぜだろう。言葉にできない。

 3年間の米国留学を経て日本に帰国し、「ブラック企業」という言葉が心に突き刺さるようになった。この言葉は、劣悪な労働条件を労働者に強いる企業を指す表現であり、若者を中心に用いられている。

 本来「ブラック」は青や赤などと同じ、色の一つを意味する表現に過ぎないが、国際的には、黒色や褐色の肌を持つ人種の人々を指す言葉としても用いられる。しかし、どういう訳か、「ブラック」は、日本社会では「悪いこと」を意味する表現に置き換わる。

 「ブラック企業」は、日本社会で暮らす、黒色や褐色の肌を持つ人々にとっては、どんなにつらく、悲しい表現であったかと、はたと気づく。特に沖縄では、さまざまな色の肌を持つ子どもたちが暮らす。当事者である子どもたちにとって自分の人種やルーツを否定されたように感じないだろうか。

 法律家の端くれとして、言葉に敏感でありたいと切に願うが、人の経験には限りがある。知らずに誰かを傷つけてしまう事態は避け難い。せめて「気付かぬうちに誰かの足を踏みつけてはいないか」と、恐れと反省を身につけていたいと思う。それと同時に、自身が「傷つく」表現に直面した時にも、言葉を発した相手に対して怒りや失望を覚えるのではなく、自身の反省を顧みて、そっと気づきを促すような謙虚さを持ちたいとも願う。多様性の尊重とは、難しいことではなく、こんな気づきから始まるのではないだろうか。

(白木敦士、琉球大大学院准教授)