<南風>こども医療センターの設立


社会
<南風>こども医療センターの設立 宮城雅也、県小児保健協会会長
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 1980年代から多くの重症な新生児(生まれて28日未満)の救命率が上がると、365日24時間救急受入れ対応の新生児集中治療施設は常に満床だった。時には1週間以上、病院に缶詰となり、多くの病院小児科医が疲弊し退職した。また複雑心臓奇形を持つ多くの子が救命されたが、小児専門心臓外科医による手術を求めて県外での長期間の入院を強いられ、きょうだい家族が分断され家庭が崩壊寸前だった。

 子ども病院設立の機運は90年初頭からで、旧県立那覇病院小児科医の有志と心臓病の子どもを守る会が協力して芽生えた。全国での子ども病院は1床当たり年間1千万円の赤字を覚悟する必要があっため、当時赤字補填(ほてん)できる大都市でしか開設されていない。財政規模の小さい本県では「不可能」と反対する行政・医療関係者がほとんどで「四面楚歌」の状況だった。

 島しょ県で追い詰められた小児医療環境を改善する必要性は極めて高く、県民への広報活動へと進んだ。96年に1回目の「母子総合医療センター」設立署名運動で約5万人の署名を集めたが、事態は動かなかった。2回目は2000年に新聞記者の助言で「子ども病院」の名称を使用し、県内の多くの親の会が結束して設立推進協議会を立ち上げ署名運動を行った。同年のサミット誘致の署名は、沖縄県庁・経済界主体に6カ月で20万人だが、子ども病院の署名は、わずか3カ月で20万の署名を集めた。

 これが大きく流れを変え、県民、医療人、患児家族、行政が「一致団結」し設立の道を歩んだ。そして行政と関係者に住民代表を加え作成した、創意工夫の満ちた子ども病院の基本構想が作成された。それを基に設立運動から10余年を経て2006年に全国初の併設型のこども医療センター開設となり、医療界に大きな変革をもたらした。

(宮城雅也、県小児保健協会会長)