<南風>夢咲坂に宿る未来への願い


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 県立北山高校は今帰仁村仲尾次にあり、通称「夢咲坂」を上り下りする生徒たちの姿は、いつ見てもキラキラ輝いています。

 地元出身の屋嘉部景栄さんは1916(大正5)年、篤農家の長男として生まれ、県立一中(現首里高校)に進学、ストライキに加わるなど反骨精神のある学生でした。23歳のとき日中戦争に参加、26歳で今帰仁村青年学校教官などを務め、伊江島の激戦を生き延びます。

 さて今帰仁村には戦後も高等学校がなく、名護の田井等高校の寮に入っての不便な通学でした。1947(昭和22)年、北部に高校増設の流れが起き、当時群島政府文教部にいた仲宗根政善先生が、今帰仁村勢理客出身で沖縄議会議員だった幸地新蔵先生に相談し、今帰仁に誘致しようという案が生まれます。

 かつて政善先生と共にひめゆり学徒隊の引率教師であった、渡喜仁出身の与那嶺松助先生が当時、宜野座高校の校長を務めており、松本吉英村長に働き掛け、村を挙げた高校誘致がスタートします。

 敷地選定で困難が生じた際、土地2800坪を無償提供したのが屋嘉部景栄さんです。景栄さんは青年学校の教官として多くの教え子を戦地に送り、自分が生き残ってしまったことを終生深く後悔し続けました。新しい教育の場は、若い人々の命を奪う場であってはいけない。その強い思いが、景栄さんの高校敷地提供に込められていたのです。

 政善先生、松助先生、戦時中国頭郡教育部会長をしていた幸地先生。北山高校建設に尽力された方々はみな、教え子を戦場で亡くし生き残った人たちでした。

 「紅燃ゆる若き命、自由の翼は雲越えて、愛あり、信あり、力あり」(黒島直太作詞)。北山高校の校歌は、生きて学びたかった生徒たちの未来への願いも歌っています。
(石野裕子、今帰仁村歴史文化センター館長)