<南風>沖縄の産業振興に尽くした米国人


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 サムエル・C・オグレスビー。1911年10月米国バージニア州生まれ。メリーランド大学やエール大学で極東問題と日本語を専攻した。

 氏は、1950年3月に米国民政府職員として、復興途上の沖縄に赴任する。 米軍統治下の沖縄は、琉球政府の上に米国民政府があり、法人認可、貿易管理、復興金融基金などに大きな権限を持っていた。

 当時、経済局開発部次長であった氏は、沖縄の復興には産業振興が重要との理念を掲げ、まず、製糖工場とパイナップル缶詰工場の設立に中心的な役割を果たす。また、製鉄、セメント、ビール、肥料、煙草(たばこ)、製菓などの起業化や環境整備に尽力した。同時に、輸出品には特恵措置を、輸入品には物品税を課す措置を取るなどして、操業間もない県内産業を支援した。

 しかし、氏の進める施策は必ずしも順調ではなかった。民政府の中には、氏の考え方に賛同しない人もおり、局内の説得には強いエネルギーが必要だった。時には、統治の最高権力者である高等弁務官に企業の視察を促し、産業支援の必要性を説くこともあった。

 多くの壁にぶつかりながらも、氏は、次々と産業振興の種子を蒔(ま)き、育て、戦前の沖縄では夢想だにしなかった近代工業の基礎を築き上げた。真に沖縄のためを思わなければ、到底達成できなかった業績である。

 オグレスビー氏は66年に55歳の若さで病で逝去した。産業界は浄財を集め、氏が生前希望した泊国際墓地に墓碑を建立した。同時に、産業功労者表彰や奨学金給付を目的とするオグレスビー氏産業開発基金を設立した。

 毎年12月20日の命日に関係者が集まり、追悼式を行っている。今年は50回目の節目の追悼式を迎える。今年も沖縄の産業振興に尽くした立派な米国人に衷心より哀悼の意を捧(ささ)げる。
(桑江修、沖縄県工業連合会専務理事)