<南風>私と『おきなわJOHO』


社会
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 ボクの職業はひと言でいえばライターですが、沖縄の食文化を中心に歴史や文化などあらゆるジャンルの沖縄関連を書いているため、風土とフードを掛けて「オキナワふうどライター」と名乗っています。

 ボクがライターになったのはもう30年以上前。もともと広告代理店のコピーライターでしたが、広告主の意向を聞いてコピーを書くことに違和感があるとき、上司から「沖縄で今までなかった情報誌を創刊するから、嘉手川くん向きなので担当ね」といわれました。

 それで、ボクは街では何が流行(はや)っているか、若い人の集まる場所はどこか、どんな店が人気なのかリサーチしつつ、面白いことが好きな若い(素人の)書き手を探したり、いろいろ情報を集め、1983年12月に「月刊おきなわJOHO」を創刊しました。JOHOでは自分で見たり聞いたり感じたことを原稿に書くことができ、コピーライターとしては失格だったボクはライターという道を見つけることができたのです。

 当時はネットもパソコンもなく、書き手はそれぞれにアンテナを張り、自分の足で拾ってきたネタを記事にしました。それまでの雑誌にはない、沖縄の若い人や今の文化など情報を満載したことから、若手のマスコミ関係者や新し物好きの若い人に受け入れられました。しかし、創刊からしばらくは広告と雑誌の売り上げ不足には苦労しました。

 それでも若い書き手は沖縄の面白いものや若者の文化、いわゆるサブカルチャーを発信するんだ、という意気込みは高く、赤字を出しながらも毎月確実に発行(当時、県内には定期発行の月刊誌は皆無でした)することで、徐々に名前が知られ、読者からの情報や取材依頼が集まるようになり、沖縄のサブカルを発信する雑誌になっていったのです。次回は沖縄のサブカルの夜明けの話です。
(嘉手川学、オキナワふうどライター沖縄泡盛新聞編集委員)