<南風>何もないけど何でもアリだった


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 創刊前に広告代理店の上司で初代編集長だったY氏から「学、そろそろ沖縄にも情報誌があってもいい頃だよな」と言われ、東京で「ぴあ」のありがたみを知っていたボクは「欲しいです。でも、作るからには何でもアリの雑誌にしましょう」みたいな話をした。

 そして、名もない若い人を集めて、何でもアリの誰でも参加できる無名の「月刊おきなわJOHO」が始まった。創刊号には今のスタイルになる前の「りんけんバンド」のリーダー照屋林賢さん、沖縄の笑いを作った旗揚げ直後の「笑築過激団」の座長・玉城満さんが連載していた。

 当時は日曜日営業のガソリンスタンドやテレビ、ラジオの番組案内、映画、血液型占い、FENガイド、アート、学校紹介など多種多彩なネタを拾っては掲載した。取材した人物も人間国宝になった直後の金城次郎氏、版画をやる前の名嘉睦稔さんなどがいて、JOHOに初めて来た芸能人としてスターダストレビューの根本要さんもインタビューした。根本さんは「まだ駆け出しのスタレビだけど、いつか沖縄で単独ライブをやりたい」と答えていた。

 創刊から数年後、JOHOの名前が徐々に知れ渡ると、いろいろな人が集った。大学生やフリーター、ミュージシャンや漫画家の卵などに混じり、川満シェンシェーになる前の川満聡さんや青年失業家として名をはせる前の津波信一さんなどがライターとして出入りした。JOHOに出入りしていた人たちは今、フリーライターやカメラマンをはじめ、県庁職員や地方公務員、編集者、お天気お姉さん、映画関係者、イベンターなど多方面で活躍している。

 あまりお金にはならなかったけど、今思えば、JOHOで関わった多くの若い人たちが、自分たちなりの新しい沖縄文化を表現したいという気持ちで作り上げていた雑誌だったのでは。
(嘉手川学 沖縄ふうどライター、沖縄泡盛新聞編集委員)