<南風>空手との出会いと転機


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 私は1963年、スポーツが盛んな与那城村の平安座島で生まれ育った。中学まではバレーボール、バスケットボール、陸上をやったが、前原高校に入ると、自分の力を試したいと個人競技に関心を持ち、高校の武道場に見学に行った。

 衝撃を受けたのが空手だ。当時の沖縄の高校空手は直接打撃の防具付き組手を採用していて、試合で真剣勝負をする姿に圧倒された。

 その頃はブルース・リー主演の映画「ドラゴンへの道」が大ヒット。沖縄が発祥の地である空手をやりたいという思いで入部した。

 1年生のころは、練習についていくのがやっと。宮良明男さんという1期先輩の練習がすごく真面目で、それについていくのが精いっぱいだった。3年生になると、主将としてチームを率いることになった。

 県高校総体の防具付き組手で優勝し、団体組手でも準優勝した。九州総体個人決勝では、興南の石垣英昭君とのライバル対決で、僅差で敗れたが、再び団体と合わせて準優勝し、全国大会に出場する。当時、全国の防具付きでは沖縄県勢は上位進出が常連だった。ところが、準決勝で対戦した熊本のマリスト学園の谷田部親英選手に負けてしまう。

 この敗戦が、私の空手人生においての大きなターニングポイントとなった。

 それまでは大学進学を考えておらず、進路は決まっていなかった。谷田部選手が日本大に進むと聞き、大学でも空手を続け、それも「谷田部のいる日大でやりたい」という思いが芽生えたのだった。

 受験勉強もしておらず、現役では不合格。親に甘えることもできず、勉強に集中できると考え、姉のいた大阪で予備校に通うことを決め、実技の試験に備え、大阪にあったフルコンタクト系の芦原会館に入った。ぜひ日大で空手をやりたいという思いで、一浪して日大に合格した。
(田村正人、県空手道連盟強化委員長、県立前原高校教諭)