「朝鮮特需」
1950年に始まった、南北朝鮮の戦争により、米軍が日本企業に多くの発注をかけた結果、日本が経済的に潤ったことを指す言葉です。
この言葉を初めて知ったとき、私はなんともいえない悔しさと、むなしさを覚えました。
元々は、一つの民族、一つの国家として歩んできた朝鮮が、植民地にされ、南北に分断され、「大国のための代理戦争」とも言われた同族同士の殺し合いを行い、それによって、日本経済が潤ったというのです。
沖縄には、「命どぅ宝」という言葉がありますが、皮肉にも、「人の命がお金に代わった」のが、同族同士で殺し合いをしたあの戦争でした。そして、今なお朝鮮民族は、分断の痛みを抱え続けています。
沖縄でもまた、沖縄戦により、多くの人の命が「防波堤」となりました。そして、今なお沖縄では、基地をめぐる苦しみが続いています。
人の痛み、苦しみが誰かの得になり、一人一人の人生、そして命が、誰かのために消費される仕組み。
ここで私は、人生と命が消費される側を「周辺」と呼び、(無意識であれ)これを消費する側、不当に得をする側を「中心」と呼びたいと思います。
沖縄戦、朝鮮戦争、基地問題、南北分断…。
私たちは、誰のために争い、死ななければならなかったのでしょうか。私たちが死にゆき、対立し続けることにより、得をしているのは結局誰なのでしょうか。この島は、あの半島は、私たち一人一人の人生は、いつまで対立の中で消費され続けるのでしょうか。
「南風」の連載も、折り返し地点に入りました。
「中心と周辺」という視点から、この仕組みを乗り越えるための考察を進めていきたいと思います。
(白充、弁護士)