<南風>一霊一木


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 暫(しばら)く手にしていない本の並ぶ棚をじっくり見回してみた。何冊かの水上勉の本。ある時期、彼の随筆を見つけ次第読んでいた気がする。当時は水上氏もご存命で健筆をふるっていた。氏の随筆は、禅の教えが根になった死生観が綴(つづ)られている。

 「俺が死んだら若狭(彼の故郷福井)の一滴文庫の庭の隅の大白桜の下に埋めろ。墓は要らぬ。毎年春が来たら花になって又散って土に戻って又その翌年花になって君達母子の暮らしぶりを見守ってやる」と本気で奥様に言い残している。

 「草でも良い毎年萌え出て来て小さな花果を結んでみたい。官も民もあげて山を削り川岸も海岸もコンクリートにして自然という自然をぶち壊す時代なら、墓石等になって緑を失う事に加担するより『一霊一木』となって美しい国土を守る人が増えればこの国は緑の山河、仏山河となる。寸土とて粗末に出来ない」と書き、良寛和尚の歌で結んでいる。「かくばかり浮世と知らば奥山の草にも木にもならましものを」と。

 先日伊平屋島に渡った。60年ほど前、島で過ごした私達家族の8年間がある。大自然と島の人達の人情以外何もなかった当時の伊平屋島を思い起こす時、先の水上勉の言葉が痛く伝わり、共感し、手にした本の埃(ほこり)を払う間もなく読み耽(ふけ)ってしまった。

 世の俗の名誉や地位にも背を向け、ひたすら死ぬことを生きた老師「正受老人」の話を本の中に見つけた時も、静寂が包む薄灯りのランプの下で卵酒を飲む伊平屋時代の父の眼光が脳裏をかすめた。戦争で片足を失い、心身共に負った傷も癒えぬまま幼い子4人と妻を伴い伊平屋島に渡った父は還暦近かった。無医村だった島の医療を助ける役目で来たのだったが、周りの大自然に抱かれ、癒やされ助けられていったのは父自身だったのかもしれない。
(國吉安子 陶芸家、「陶庵」代表)