<南風>藍玉づくり


社会
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 6月は琉球藍の藍玉(別名泥藍)を製造する季節。山の斜面に植え付けた藍草を刈り取って平地の製造施設まで運搬するのは骨の折れる仕事。並みの体力では2カ月余も続く休みなしの重労働は持続できない。

 私は昭和50年代に、伊野波盛正氏の藍玉づくりを長期に手伝ったことがある。刈り取った藍草の束(約17キロ)を担いでこう配の強いぬかるんだ斜面をよたよた運んだのである。正直、決して楽な仕事ではなかった。

 藍草の刈り取りは晴天の時はできない。刈り取った藍草を終日太陽に干してしまうと、藍草が萎(しお)れて水に溶けない状態になる。水槽に浸(つ)けても藍草は腐食せず、結果としてインジゴ染料が抜けなくなる。このため藍草の刈り取りは雨に濡(ぬ)れながらの作業が多く、日常的には一風変わった作業である。

 この藍玉づくりは強健な体力と精神力が必要だと痛感した。そんな時、伊野波氏を見ると、何と骨太のがっちりした体形ではないか。私とは一世代ほどの年齢差があるが、作業はてきぱきと手早く進めるし、雑談や休憩は滅多にない。ところで、ここでいう伊野波盛正氏とは、無形文化財「琉球藍製造技術保持者(選定保存技術保持者)」である。伊野波氏の先祖は、廃藩置県後に本部町伊豆味へ移り住み、藍玉製造業を起こされたそうで、4代目と伺った。若い頃は奥様とお二人で二人三脚の藍玉づくりであった。

 最盛期の頃は、水槽(藍草浸漬槽)1基に3トンほどの藍草を浸漬し、6月の夏藍は20回ほど繰り返し製造していた。合計すると60トンの12%ほどの藍玉ができるので、製造量は約720キロになり、県内染織業界の消費量を概(おおむ)ね賄っていた。現在は藍玉不足で染織業者は悲鳴を上げつつあるが、解決策は簡単でないようだ。
(小橋川順市、琉球藍製造技術保存会顧問)