<南風>藍葉生産が盛んな頃


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 本部町史によると、県内の琉球藍葉生産の推移は、明治30年代が最も盛んで、40年代からは漸減し、大正期まで右肩下がりになっている。主な要因は明治30年代後半から各種合成染料が発明され、インジゴピュアの量産化が進んだことにある。しかし昭和10年代からは需要が回復し、沖縄戦まで本部町伊豆味を中心に増加の一途をたどっている。

 明治期の盛んな頃は本島北部から中南部の西原や浦添などまで盛んに藍葉が栽培され、藍玉づくりが行われている。しかし此処(ここ)での藍壺は、伊野波盛正氏が有する2槽式の大型藍壺ではなく、地面を掘り下げて造成した直径4~5メートルほどの碗(わん)型藍壺である。

 昭和10年代に藍玉づくりが盛んになった時代的背景には、昭和8年を初年度とする期間15年の「沖縄振興計画」が策定されたことにある。本部町内に3千槽の藍壺設置が計画されている。それは藍玉を原料とする琉球紺絣(がすり)や宮古上布などの需要増加が見込まれたからである。

 平成15年度に琉球藍製造技術保存会が本部町教育委員会と共に伊豆味地域に残存する古い藍壺遺構調査を実施している。その結果で言うと、藍壺遺構は伊豆味地域に9カ所あり、1カ所に4~5槽の藍壺と藍玉貯蔵槽が残っていた。しかも軽微な補修をすれば再使用が可能な藍壺もあった。

 前伊豆味区長の伊野波盛明氏の体験談によれば、藍壺は幼少期の水遊び場であったという。数人で泳ぎ続けると水槽の中央に大きな渦が出来、疲れて縁(ふち)に手を掛けようとするが渦に引き込まれて手が届かず、泥水を腹いっぱい飲んだそうである。高齢な割に頑強そうに見える盛明氏の話は、幼少時に飲んだ泥水のおかげだと言いたそうであった。そういえば筆者も似たような経験をしている。色が浅黒いのは、あの時のインジゴのせいかもしれない。
(小橋川順市、琉球藍製造技術保存会顧問)