<南風>台湾藍? 琉球藍?


社会
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 平成19(2007)年9月、国立台湾工芸研究所主催の「天然藍に関する台湾と日本の技術検討会」があった。私は琉球藍研究者として招待され参加した。幸運にも、かねての疑問が解ける機会があった。琉球藍製造技術保持者の伊野波盛正氏が所有する2層式製藍施設の古い手書き図面に出合ったのである。その図面は、明治期に日本人技師が設計したようである。構造的には、伊野波氏の頑丈なコンクリート製と違い、骨格部分は石積み構造になっていた。伊野波氏の施設は昭和40年代に琉球政府の助成金で施工されたことは知っていたが、構造設計者は誰なのか知らなかった。

 先の工芸研究所では琉球藍を栽培し、藍玉を製造し、さらにファッショナブルな布を染めていた。当初、主催者側は琉球藍と言わず、台湾藍と説明していたので多少の戸惑いを感じた。しかし考えてみると、琉球藍は学名ではなく和名なので、当然な話ではある。

 琉球王府時代、琉球藍は宮古島でも栽培され、藍玉が製造されている。ただし製造施設は椀(わん)型の藍壺であった。昔も今も製造者が神経を集中させるのは、浸漬した藍草を取り除くタイミングの判断である。それは藍玉の品質に大きく影響するからであり、従事者は大切な「勘」として技術継承に励んでいる。

 かつて藍草の管理は夜中でも行っていた。明かりのない暗闇では視力が全く利かないので、藍壺の液を指先で舐(な)めたり、さらに藍草が発酵した時に発する気泡の音を聞いて総合的に適宜を判断した。今、藍玉を建てる時(発酵させる時)、藍液を舐めて判断する人がいるが、それは明かりのない時代の名残と思われる。昨今の明るい環境の下では、藍液表面に湧き上がる泡の勢いや藍液の色合いで適宜の判断ができる。染色可能な還元状態になれば藍液は黄緑色が増してくる。

(小橋川順市、琉球藍製造技術保存会顧問)