<南風>ボキャブラリー


社会
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 若者たちと話をしていると、その言葉づかいに愕然(がくぜん)とする。ごく普通の、平均的大学生でも、とにかく語彙(ごい)が少ないのだ。

 何かに感動すると男も女も声を揃(そろ)えて「スゲー」という。とても感動したときには「超スゲー」「メッチャスゲー」「スゴくね?」。

 問題が発生すれば「ヤベー」「超ヤベー」「激ヤバ」、何かを食べたら「ウメー」「マジー」、暑いときは「アチー」寒いと「サミー」、「ダリー」「コエー」「ヒデー」……普段、仲間とこれだけで会話しているから、場違いなところで反射的に出てしまうのだ。

 大体、こんな幼稚なボキャブラリーだけでは、複雑なことを表現できないではないか。「スゲー」「ヤベー」「ウゼー」「ムジー(難しい)」。これじゃ馬鹿の会話だ。

 いろんなレベルの「凄(すご)い」ことを「スゲー」一言で終わらせるのは、何十もあるそれぞれ異なった色を、すべて「赤」とひとくくりにするようなものだ。

 世界は驚くほど複雑だ。たとえば人間は微細な表情の変化で、相手とやりとりしている。だから、高倉健が顔の筋肉を、ほとんどわからない程度に動かすだけで、観客の心は揺さぶられる。逆にアニメは表情のバリエーションがないので、声優の大袈裟(げさ)な演技や音楽でごまかす。

 若者たちが実写よりアニメに夢中になるのは、描かれた(描ける)世界が単純だからだ。複雑さは効率が悪い。損得善悪の区別が簡単じゃない。知識や経験がないと面白さがわからない。

 しかし、人は言葉で思考する動物だ。複雑な世界を認識するために語彙が存在する。単純な言葉しか使えぬ者には、世界の本当の姿は見えてこない。

 だから私は、学生が「スゲー」というたびに、「何が凄いのかちゃんと説明しなさい」と言うことにしているのである。
(天願大介 日本映画大学学長映画監督、脚本家)