<南風>踏みとどまる


社会
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 今年の暑さは例年より平均何度高かったという報道よりも、ずっと暑かった気がする。園内案内でついた袖焼けが例年よりまぶしい。仕事を終え、家に帰る道すがら羽地内海や嵐山越しの美しい夕焼けを見ていると、そんな夏もそろそろ終わりなんだと感じる。

 嵐山の麓に住み始めて2年。家のまわりを散歩すると、かつて田んぼとして使われていた跡をたくさん目にする。羽地ターブックヮと呼ばれたこの地域で、療養所建設反対の声があふれていた時代がある。

 今から85年前の嵐山に療養所をつくろうという計画。当時の資料を見ると、計画を進める側も反対する側も病気を患う人に対する感情的な差別が透けて見える。気になるのは、施設ができたとき最も不利益を受ける人々の声や姿の不在だ。

 現在の視点から単に過去を批判することは、あまり意味を感じない。ただ、そういう時代だからしょうがなかったと終わらせない姿勢をもち続けることは大切なことだと思う。

 その上で、嵐山から流れてくる水で米をつくることを生業としている人の立場に立って、そのことを想像してみるのも大切なことだろう。想像して、何らかの選択を迫られたら、どうするのか? 分からない恐怖を遠ざけたいと思うのは彼ら、彼女らだけではない。

 容易でないと思いながら、踏みとどまりたいと切に願うのは、ハンセン病回復者、沖縄戦体験者など、国の施策によって苦しい体験をした人たちから話をたくさん聞かせてもらったからだろう。

 見えない恐怖が煽(あお)られたり、それしか道はないと示されたりするとき、本当なのか疑ってみる。そして、最も不利益を受ける人たちの声に耳を傾ける。

 容易に煽られてしまいそうな見えにくい世界だからこそ、そのことを忘れないようにしたい。
(辻央、沖縄愛楽園交流会館学芸員)