<南風>ドリトル先生の呪い


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 先日の東京国際映画祭で、教え子2人の作品が上映された。粘り強く表現を続けてきた結果であり、教えた身としては大変嬉(うれ)しい。

 それはそれとして―僕自身は映画祭があまり得意ではない。映画祭というのは監督をやたらに褒めるお祭りで、居心地が悪いのだ。とにかく恥ずかしい。作品を見てくれれば監督なんかどうでもいいと思う。

 作ったものとその評価は別だ。作り手である僕にとって大切なのは自分の基準で、世間の評価には興味がない。もちろんその結果、損ばかりしてきたのである。

 何でこういう態度になったのか。つらつら考えるうち、子供の頃読んだ本の影響ではないかと気づいた。

 少年時代、僕は井伏鱒二訳のドリトル先生を愛読していた。

 医学博士のジョン・ドリトル氏は、動物の言葉を研究して喋(しゃべ)れるようになる。動物の間で評判になり、病気の動物が押しかけてきて、ついには世界の果てまで(月まで!)治療に行くはめになる。

 なのに先生はずっと貧乏だ。動物からお金は取れないし、困っている動物を放っておけない。お金が入っても動物のために全部使ってしまう。

 外見は小太りの英国紳士で、いつも謙虚でユーモアと礼儀を忘れない。しかし間違っていると思えば、腕まくりして闘う。

 世間では、頭がおかしいと思われている。だが全世界の動物たちは、ドリトル先生こそ最高の名医だと知っているのだった。

 少年期の影響というものはまことに侮れない。物語や漫画や歌詞、映画の登場人物が、その人の価値観やモラルを作り、無意識に、行動の指針となっている。読者諸兄も思い当たるのではないか。

 損をしても仕方ない。今でも僕はドリトル先生を尊敬し、あんな人物になりたいと思っているのだから。
(天願大介 日本映画大学学長映画監督、脚本家)