<南風>沖縄ジァンジァン


社会
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 子供の頃から、映画と同じように演劇や芸能に深い関心があった。文学座を見て育ち、小沢昭一さんから芸能の奥深い世界を学び、高校時代はつかこうへいに夢中になった。

 あの頃、東京ではアングラと入れ替わるように、小劇場演劇が爆発的ムーブメントになっていた。小劇場は東京でしか見られない。演劇ファンとしては、後ろ髪を引かれつつ沖縄に来たのである。

 那覇では頻繁に内外の芸能がやって来て、豪華な顔ぶれを東京より安く見られた。もちろん沖縄の芸能も見て歩いたものの、やはりそれだけでは足りない。

 思えば、その頃、沖縄ジァンジァンが誕生したのは実に幸運なことだった。

 ブニュエルや寺山修司の実験映画をまとめて見たし、美輪明宏や高橋竹山は来るたびに通った。筋金入りのフォーク・シンガーの歌、ジャズやロックの実験、伝統芸能や海外の芸能、東京乾電池も天本英世のロルカの朗読も見た。最前衛の熱気はなくとも、一流の芸を近距離で目撃できたことは大きい。

 そのうち我慢できなくなって劇団を旗揚げし、生意気にもジァンジァンで芝居を上演した。僕の舞台演出家デビューは沖縄ジァンジァンなのである。

 ある晩、テレビを見ていたら、寺山修司が出ていて、マルケスの「百年の孤独」を沖縄で撮ると喋(しゃべ)った。履歴書を書いて制作事務所のジァンジァンへ走った。スタッフに採用され美術を手伝うことになった。

 寺山さんが何度も倒れ、撮影は中断した。「さらば箱舟」というタイトルのその映画は、寺山修司の最後の映画だ。そして、ここで出会った人たちと、僕は後に仕事をすることになる。

 東京とは違う環境でも、沖縄では、その気になれば刺激的な体験ができた。沖縄ジァンジァンには深く感謝している。
(天願大介 日本映画大学学長映画監督、脚本家)