<南風>言葉の花束


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 南風の執筆も、今回でフィナーレを迎えた。思えば、何かに導かれたように夢中になり、古今東西の旅路を辿(たど)りながらの執筆となった。それはまた、様々な言の葉に想(おも)いを馳(は)せた、言語世界の旅とも言えるものだった。縁あって、巡り合った方々との日々の喜怒哀楽から小説のワンシーンまでが、まるで走馬燈のように浮かんでは消え、印象の深い言の葉だけが残った。

 そこには、苦難の旅路を共に歩き、支え続けてくれた黄金言葉があった。若い頃から血肉となり、感性を育んでくれた和歌や琉歌もあれば、小説の主人公の何気ないセリフに感銘し、生きる勇気を得たこともあった。先達の叱咤(しった)激励が、人生の指針や杖言葉となったケースは、数えきれないほどである。

 南風のコラムには、そのような言の葉を綴(つづ)ってきたが、結果的に、ささやかながらも言葉の花束に出来たのならば、私の南風の旅も、意味があったというものである。聖地を訪ねる巡礼者が、光の言葉を見出し、希望を抱いて生きていくように、先達の言葉は、まさに生きる支えであり一条の光である。人生はやはり、人との出会い、書との出会い、言葉との出会いに窮まるのではないだろうか。

 私も先達にならい、慈愛に満ちた言葉を発し、人の心の糧となるような、あるいは灯となるような、声かけを心がけたい。いみじくも、聖女のマザー・テレサも述べている。「たとえささやかな声かけでも、思いやりに満ちた言葉は、ずっとずっと心にこだましていく」と。豊かで平和な社会とは、常に他者を自覚する社会であり、心のこだまが響きあうような、温もりのある社会に他ならない。

 折しも、明日は大みそか。皆さんにとって、新たな年が幸多き年であり、また、素敵な言の葉に恵まれた一年でありますように、願っております。
(山城勝、県経営者協会常務理事)