<南風>5歳の新聞少年


社会
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 腹話術のいっこく堂です。年に数回沖縄で仕事をするので、沖縄在住だと誤解されることも多い。現在東京在住で、沖縄を離れて36年が経(た)った。神奈川生まれの沖縄育ち。出身地は沖縄と答え、生まれは?の問いに対しては神奈川と答えている。出身地の意味を辞書で調べたところ、「生まれた土地。また、ゆかりのある土地」とあったので、間違ってはいない。

 5歳まで寒川という町にいて、一の宮愛児園のおやつに出た「きな粉白玉」が美味(おい)しかった事を覚えている。幼稚園に入る少し前に、一家4人で沖縄に引っ越して来たのだが、元々両親とも沖縄の名護市出身。1961年、両親は1歳の長男(私の兄)を連れて、タイヤ工場で働くために神奈川に移り住んだ。

 2年後の63年に私いっこくが生まれたのだ。私、本名もいっこくといい、漢字で「一石」と書く。5歳の時沖縄へやって来た。船で東京から沖縄に渡った時のことを覚えている。パスポートが必要だった68年に予防接種を受けて「なみのうえ丸」という船に乗り、船酔いで気持ち悪く、カレーライスが美味しくなかったというのも印象に残っている。

 沖縄に来て住む家が見つかるまでは、羽地村仲尾の父の実家で過ごした。そして5歳だった私はすぐに新聞少年になった。毎朝早く起きて、近所の家々に新聞を配って廻った。家に置いてあった古新聞を「ちょうか~ん、ちょうかん!」と大声で叫びながら。歌手の山田太郎さんが歌った「新聞少年」に憧れていたからだ。ご近所の人たちは、朝6時に、大声で起こされ、そのうえ古新聞まで受け取らなければいけないのだから本当に迷惑な話である。

 でも叱られることもなく、近所の皆さんは昼間、私を見かけると「新聞少年」と呼んで可愛(かわい)がってくれた。今のご時世ならきっと苦情がきていたに違いない。
(いっこく堂、腹話術師)