<南風>小さな物語


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 前回の続きです。大衆食堂の2代目になる女性店主は次のように語りました。「わたしが娘の頃は占領時代だったので、米軍の兵隊をお客に大繁盛しました。売りあげ金のドル紙幣を段ボール箱に放り込んであふれださないように足で踏みかためながら料理をしていました」

 この町は占領軍兵士を相手に空前の賑わいだったそうですが、今はシャッター通りと化して24時間営業でやっとしのいでいると嘆く状態です。そこへ85歳余の私が特大の宣伝パネルを抱えて舞い込んだのです。詳しい事情を聞くまでもなく、切迫した雰囲気を嗅ぎ取ったのでしょう。そのとき、繁栄を誇った過去の自分と今の自分を照らす鏡のように私が見えたのかも知れません。で、あればこそ気軽に街頭に出て写真のモデルになったのだと思います。同じように短い自分史を語る商店主に次々と出会い、宣伝活動に協力してもらいました。

 私の心に巨大な隕石が落ちてきたようなショックを覚えました。突然の訪問者である見ず知らずの私に自己を語りながら「LGBTQ」と名乗る性的少数者の行事を公然と支援するアピールを掲げる人々の動機は何なのでしょうか?

 かつて、人々は「理想」とか「理念」という生きる目標をかかげた大きな物語を信じていました。しかし、大きな物語が虚構であることを日々の生活のなかで否(いや)応(おう)なく気づかされました。人々は身近で些細な実体に希望を託する生き方を選択せざるを得ません。むしろ、壮大な前途を期待するよりも今を何とかしなければならないのです。そのような感覚、あるいは置かれている環境を共有した結果、忽然(こつぜん)と生じた共同行動だったと思います。小さな物語は誰でも持っています。この物語と物語を編集することに注目したい。そこに可能性がある、と思いました。
(南定四郎、LGBTQフォーラム2018実行委員長)