<南風>新米技官と研究室


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 1982年5月、当時那覇市与儀にあった医学部保健学科人類生態教室の技官に採用された。国家公務員試験に合格し、大学職員どころか研究室の技官になるとは想像もしなかった。

 初出勤の日。朴訥(ぼくとつ)そうで地味な印象のK教授から言われて、タイプ教室に通う羽目になった。しかも自腹。本棚に並ぶ背表紙の英文字や、壁一面に張られた変わった顔立ちのチンパンジーの写真を見ながら、月謝ばかりが気になった。

 翌日、K教授からあれはチンパンジーではなく「ボノボ」だと教えられ、数十冊の濃緑色のフィールドノートと肌色の分類カードの束を渡された。餌場での様々な距離を測るための18センチ定規を左手に、右手には新品のシャーペンで私の初仕事が始まった。コンゴ民主共和国の奥地、ワンバ村に棲(す)むボノボの摂食データの整理作業だった。餌場で彼らが残した排泄(はいせつ)物の場所やボノボ間の距離、何をどれ位食べたかを黙々と分類・整理することだった。

 2カ月が経(た)った頃、先輩たちが就職祝いをしてくれた。初仕事を訊(き)かれ、「人間に最も近い希少な類人猿の観察データを整理中で」。間髪を入れず、「ほほう、試験に受かって猿の糞(ふん)を数えてるか!」とやられた。「猿じゃなくてボノボ」の声は皆の爆笑で飛んでしまった。

 K教授は十数年も教壇に立ちながら、学生の顔を見るのが苦手。野外調査専門で白衣も実験室もないが、高そうなカメラや望遠レンズがある。山積みの埃(ほこり)臭い資料をひっくり返し、虚空を見つめているかと思えば突然論文を書き出す。想像できないが、アフリカでは別人になるらしかった。

 日本の霊長類研究が世界屈指で、先駆けとなった研究者たちの一人がK教授だと知り、学会誌や本を読み始めた。この研究が一体なんの役に? 私なりに納得できたのは、もう少し後のことだった。
(新田早苗、琉球大学総合企画戦略部長)