1984年2月、電話に出ると「ユースホステルに泊まっているが、もっと安いホテルを紹介してほしい」という外国人の声がしました。そこより安いホテルは無いが私の自宅でよければどうか。OK、とビル・シュアーさんというドイツ人が私のオフィスを訪れてきました。
彼はスウェーデン国立放送局のディレクターで、IGA(インターナショナル・ゲイ・アソシェーション)の情報局長でした。ヨーロッパで出版されているグラビア雑誌に掲載された私へのインタビュー『日本のゲイ事情』のページを開き、テーブルに置きました。私の顔写真に「ゲイ・アクチビスト」となっています。電話の件を納得です。「ゲイ・アクチビスト」とは宿泊を求められたら「応ずる人」なのです。ホテル代を無償とする以上に情報の交換をするための同志だからです。彼は次のように来日目的を告げました。
「IGAは国際団体ですが、アジアからの加盟団体はゼロです。国際的な団体と言えません。日本からの団体加盟を勧誘にきました」
「日本でゲイ解放運動を行うのは無理です」と他のゲイ・マガジンの編集者を紹介しました。彼は翌日から勧誘活動をしましたが、いずれも拒絶されたと戻ってきました。
「日本でゲイ解放のデモをしたら石をぶつけられます」と、私は慰めました。
「初めはどこでも投石されます。そのために私はヨーロッパからスウェーデンに逃げたのです」と彼は微笑して、「スウェーデンでは最初に一軒の家を借りました。そこで編み物教室を開き、その集まりがFM放送局を開設するまでになりました」
「アパートの一室からでも運動は出来るのですか?」
「イエス」
私は彼に握手を求めました。1984年2月15日の記念すべき日でした。
(南定四郎、LGBTQフォーラム2018実行委員長)