<南風>差別? 区別?


社会
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 キューバに行った時に、すごく印象的な考え方を教わった。キューバは、ひとえにキューバ人という容姿は存在しないほど様々な人種が入り交じった国である。

 キューバは、アメリカから独立した時に、肌の色による差別をなくしたそうだ。

 肌の色は区別でしかない、と言うのだ。

 差別は、人間の愚かな行為のひとつである。

 しかし、差別しないことを意識し過ぎて別の差別が生まれることもある。先日、コメディアンがものまねで黒塗りして問題となったが、まねされたアメリカの黒人コメディアンは、白塗りして白人になるというコメディーを行った人であり、そのことはあまり問題になっていない。

 片や差別行為であり、片やコメディーらしい。いろいろな問題や歴史がそうさせているのもわかるが、私には、差別されるかわいそうな人たち、と決めつけてしまっていること自体も、差別に思えて仕方ないのだ。

 キューバで実感した「区別」という考え方は、そんなモヤモヤした気持ちを吹き飛ばし、とても腑(ふ)に落ちた。

 男女の差別はいけないが、男女の区別は必要なのだ。他国は差別するべきではなく、区別があればいいのだ。

 肌の色など、変えることができないものは、各々が誇らしく存在できる考え方をお互いが持つべきなのである。

 区別とは、お互いを尊重するものなのだ。

 区別をしようとすれば、それがまた差別となる。区別は当たり前に存在するものである。

 差別を区別に置き換えるだけで、世界はぐっと幸せになるように感じませんか?

 すべての人が、持って生まれた弱点など無くなる、そんな未来を私は描いていたいのです。
(江川ゲンタ、打楽器奏者 宮古島大使)