<南風>起点はニシムイ


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 今月は、学芸員の仕事に関連した二つのイベントに登壇した。一つは沖縄県立博物館・美術館開館10周年記念展シンポジウム、もう一つは板橋区立美術館で開催されている「池袋モンパルナスとニシムイ美術村」展オープニング対談である。

 県立美術館は開館まで紆余(うよ)曲折があり、最初に学芸員として配置された私は、準備室に15年も勤務することになった。困難な状況におかれた私を見て、画家の山城見信先生は「てふてふが一匹 韃靼(だったん)海峡を渡って行った」と呟(つぶや)いた。「沖縄美術史は構築しうる」と信じること、それがすべての支えであり、常にそこを向いて黙々と仕事を積み上げた。その調査研究の起点がニシムイであった。

 学芸業務に忙殺され絵が描けなくなった私を、画家の久場とよ先生は「いつから絵を描くの、約束なさい」と何度も何度もアトリエへ呼びつけ叱(しか)って下さった。

 振り返れば、私はけっして1匹の蝶(ちょう)ではなかった。多くの人々に支えられ信念を貫いた。行政判断の下、思い通りにならないことも多く、開館の日、来賓でいらした安谷屋節子先生(ニシムイ画家、安谷屋正義夫人)に、「こんなはずではなかったのですが」とわびたところ、翌日、自宅にワインが届いた。「あなたの英知に」と添えられて。涙でワインの味は分からなかった。

 沖縄の美術館が10周年を迎えたタイミングで、ニシムイ研究の成果を東京で紹介する機会を得た。東京美術学校に通った名渡山愛順や山元恵一が青春時代をすごした池袋モンパルナス。県が美術館事業で最初に収蔵した南風原朝光も池袋を闊歩(かっぽ)した。

 様々な縁に導かれ今がある。初めてのことは上手(うま)くはいかない。しかし、もう一度やり直したいとは望まない。つまずきもまた愛おしく思えるから。そして今なら沖縄美術史構築を多くの人が信じてくれよう。
(前田比呂也、那覇市立上山中学校校長 美術家)