<南風>「危険性」の共有


社会
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 例えば、AクンとBクンのカップルが観覧車に乗っていたときにドアの鍵が損傷した、と仮定しましょう。当然のことですが、二人は空中で必死になって協力しながら地上に到着します。死を賭した共同作業は単なる危機を脱出したという以上に、お互いの血が通い合ったような感覚を実感することでしょう。

 某レスリング・ジムに通っている男性の告白に耳を傾けてみましょう。

 練習の相手がオリンピックでメダルを獲得した方で、汗まみれになって組んずほぐれつの最中に、元選手の性器を掴(つか)んじゃった、のです。その瞬間、背筋を走りあがる感覚を覚えたのには驚くばかりでした。世界の大ステージに登場した男性と対戦というシチュエーションは偶然でしたが想像を絶した、と告白しました。栄光の表彰台にのぼった中年男性が、今も身体を鍛えてチャレンジをしている。それは船底一枚下は海だという儚(はかな)さに耐えている身体であった、と言いました。

 元オリンピック選手には単純な身体接触であって一顧だにすることはないにしても、対戦した男にとっては重要な出来事でした。性的妄想ではなく男性性と男性性が激突した千載一遇の体験だったのです。

 歴史をさかのぼって足利義満と世阿弥の関係を読み解きましょう。

 「危うい緊張関係に囲まれた統治環境に身を置く将軍、片や22才の世阿弥は芸の頂点に向かって手の届く位置にある芸能人。二人は存在感を失ったとたん、たちまち現実の存在を否認される運命にあることを予感したに違いない」(山崎正和『芸術・変身・遊戯』113ページ)原文を要約しました。このような背景があったからこそ、義満が世阿弥を寵愛したのでした。

 以上、三様の人間模様からエロスとは惰性的日常ではなく、緊張関係の裂けめに花開く花火だと思います。
(南定四郎、LGBTQフォーラム2018実行委員長)