<南風>微かに届いた南風


社会
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 前回のコラムを読んだ新報の担当者が、祖母の事件の記事を探してくれた。それを読むと、泥酔した米兵が逃亡しようとしたのを、500人もの人々が集まり阻止し抗議したとあった。祖母の命はけっして軽いものではなかった。重荷をひとつ下ろす。南風を書こうと決めたのも、以前共に闘った同士の記者からの提案だったからだが、これが私の中に微(かす)かな南風をもたらした。まったく知らない方から電話や手紙が届く。かつての上司や同僚からの連絡もあり、いろんな職場で働いたなと改めて思う。様々な課題解決に行動している人々が学校を訪ねてきて意見を交わしたりもした。書いた本人の思いを超えた好意的な解釈で、お礼を言われることも多かったが、感謝するのは私のほうだ。

 この連載で、最初の中学校の教え子たちとも繋(つな)がった。みんないい年になって、社会のそれぞれの分野で活躍している。彼らは中学の卒業式を、日の丸を降ろさないと入場しないと主張しボイコットした。時代の空気も変わり、長い時間を生きた。少年の頃描いた夢は何一つ成し遂げることなく、些事(さじ)に振り回された人生のように感じていた。「人生はクローズアップで見れば悲劇、ロングショットで見れば喜劇」とチャップリンは言ったが、私の人生の様々な繋がりが見えると楽しくも思えてきた。

 この春に卒業して高校生になった女生徒が先週訪ねてきた。校長室で描いた油絵を受け取るためだ。その絵は画面の半分を彼女が流す涙が覆っていた。彼女は「もう、こんな絵は描かない」と、きらきらと輝く笑顔で静かに呟(つぶや)いた。長いトンネルを抜けたようだ。負の連鎖を超えていく思春期のたったひとつの出会いがあるという。そのほとんどが教師との出会いである、とも。教師は尊い仕事である、私はやっぱり先生をしていて良かった。

(前田比呂也、那覇市立上山中学校校長 美術家)